2008年05月26日
Insurgency War5
32nd Bn Reconnaisance-wing隊員
つづき
南アフリカは、1975年ポルトガルから独立したアンゴラを巡り長期に渡る紛争の中にいました。
アンゴラは宗主国ポルトガル本国の左傾化により共産主義国家として独立。ソ連との関係が拡大します。アンゴラは有数のダイヤモンド産出国であり、ダイヤは宝石としての価値と共に工業製品製造には欠かせない「戦略物資」の一つでもあります。ソ連の影響拡大に対抗したアメリカは南アフリカを後押しし反政府勢力UNITAを援助します。ここに冷戦下、世界各地でみられた「米ソ代理戦争」の図式が完成します。
アンゴラ紛争において特異な位置を占めたのが南西アフリカ(現ナミビア)の存在です。
WW1以前、南西アフリカはドイツ領でしたがドイツ敗戦による空白に乗じ南アが実行支配します。しかしこれは国際的には承認されず南アの不当統治とされていました。
南アはアンゴラと国境を接する南西アフリカを前線基地としてアンゴラ攻略を試みます。
アンゴラ独立時に親ポルトガル勢力として戦った部隊を母体とする32大隊、南西アフリカ駐留南ア軍部隊(SWATF)は越境攻撃部隊として南西アフリカを拠点とします。
ローデシアSASの流れを汲む南アフリカ陸軍特殊部隊 通称レキースコマンド(昔はレックスコマンドと表記されていましたがアフリカーンスではレキースが近いとの事です)、32大隊偵察部隊は国境より長駆アンゴラ国内に侵入し情報収集、敵部隊監視を行い打撃部隊、航空部隊(南アは国際的非難を浴びながらも越境爆撃を繰り返していました)を誘導します。
偵察部隊は4~6名の少人数で、これは英SASがマラヤ、ボルネオで行ったパトロールを元としています。人数は旧ローデシアにおいてアルエットⅢヘリコプターへ搭乗可能であった乗員数に起因するとも言われています。
少人数による長距離偵察は交換将校として英SASへ赴いていたC・ベックウィズによりベトナム戦争時に米軍へ導入されLRRP(後にLRP)となりレンジャーへと拡大しますが、本家の系譜はあくまでも少人数部隊であった事が判ります。
これら偵察部隊は交戦を極力さけていましたがやむをえない状況では人数からは掛け離れた火力により敵を退け窮地を脱する戦法を採りました。32大隊偵察部隊の武装一例ではリーダー:AKM、M79 サブ:AKM ガナー1:RPK ガナー2:RPD RPDガナーは予備200発、他の隊員は各自ベルト弾倉を50~100発所持したほか、AK弾倉4~6本、40mmグレネード約20発を携行したとあります。ある記録では見通しの利かないジャングルにおいて32大隊偵察部隊は30分を超える激しい銃撃戦を展開したとあります。データでは密林地帯での銃撃戦は平均1~3分と言われており如何に偵察部隊が緊急時に火力を発揮したかが伺えます。
偵察部隊の多くは南ア国内で製造された各国迷彩服コピーを着用する事が多く身分露呈を回避したり、白人隊員はフェイスペイントにより黒人兵に偽装する等していました。(白人兵士が東独迷彩服を着用し東独軍事顧問団に偽装する事もあったそうです)面白いのが敢えてトレッドパターンの無いブーツを使用し、敵トラッカーの追跡を妨げるなどその戦術は徹底したものでした。
南アフリカによるアンゴラ侵攻は正確にはInsurgency Warとは異なるのですが背景や周囲の状況を見ると「Insurgency War拡大版」と言えるものでした。本来主力となるアンゴラ正規軍は質の面からは「ゲリラ」の域を出ていませんでしたが、それに代わって南アと直接衝突したのがキューバ派遣軍、ソ連、東独軍事顧問団でした。本来の意味でのInsurgency Warは南ア後方兵站を支える南西アフリカで繰り広げられます。事実上、南西アフリカにおけるInsurgency Warの南ア主力は「警察軍」でした。
つづく
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